補正

特許の世界で補正といえば、特許請求の範囲を修正することといえます。この修正の範囲が難しく、毎度のことのように特許庁次第ということがある厄介なものです。

昔は、時期の制限があり、そちらの方が頭が痛かったものです。「えーと、現時点っていうのは補正できるんだっけ?」と言った会話を良くしていました。条文上、補正ができる時期は、比較的短い期間だけでした。

その反面、内容の制限は比較的緩やかでした。私よりも一世代前だと、技術を表した図面から技術者が読み取れる範囲で文章を追加するようなことは全く問題ありませんでした。個人的にはそれはやりすぎだとは思っていました。

当時からアメリカは、権利化を要求する特許請求の範囲と、その技術説明をする明細書の補正をはっきり区別していて、明細書の補正は基本的にできず、特許請求の範囲は比較的自由でした。

日本の場合、審査の過程で不足部分をどんどん補っていってしまい、審査の最後に特許を得られる時点では最初の明細書に書いてあったのかと思われるような文言がいくつも入っているということがざらでした。そんな「後出しじゃんけん」のような制度に対して自分はしっくりしなかったと感じていました。

ですから、アメリカのシステムの方が合理的と思いました。アメリカは何度も審査を繰り返せるので、審査の過程で本来の基準である明細書が勝手に変化してしまうことを抑制していたのです。まさに、審査のシステムと、補正のシステムは、両者の特徴をきちんと調和させていたと言えます。

一方、日本は補正について制限を厳しくしていきました。今はアメリカのように殆ど明細書に手を入れることはできなくなりました。そのこと自体はアメリカの例を見ても決して悪くはないと思います。

しかし、日本の審査は、アメリカのように何度も審査してもらえるというものではありません。ですから、補正だけ厳しくしていくと、審査のシステムと調和しなくなるのです。

ただ、別の手段を使って実質的に何度も受けることが可能と言えば可能です。しかし、今のような制度ではそういった別の手段を使うことを肯定するつもりなのですかといったことを特許庁の説明会などでぶつけることはありますが、そんなときは「できるだけそういったことはしないで欲しい」と言われるように感じます。

内閣は知的財産立国を目指すと言ってはいますが、特許庁は都合良く出願を抑制し、都合の良い審査をしやすくし、出願人に特許を取らせまい取らせまいとしているように感じます。

「美しい日本の国」とは何を言うのでしょうか。内閣は自分の足下(行政)を見ることなく、国民に何か期待しているようですが、それは無理というものでしょう。
2006年12月19日 13:49